2016/06/20

チェルノブイリ30年をたどって(連載)

(チェルノブイリ30年をたどって:1)エチルアルコールで宴会
2016年6月6日 朝日新聞

幼なじみの3人は草上の宴会を始めた。
左からイワン、通訳の女性、ピョートル、ミコラ。
右下の日付から1990年6月18日のことだとわかる 




今年3月31日、私はチェルノブイリ原発事故30年の取材で、ウクライナ北部の町ナロジチにいた。

原発の西約70キロにある農村地帯だ。放射能汚染のレベルは、いまも相当高い。

集会所で森林保護区の事務局長に話を聞いていたとき、一人の男がのっそり入ってきた。ハンチング帽をかぶっていた。

「ミコラだ」という。家畜試験所長の? 思わず問い返した。「そうだ。あなたと野原で酒を飲んだミコラだ」。ほぼ26年ぶりの再会だった。

30年前の1986年4月26日、チェルノブイリ事故は起きた。私が朝日新聞取材チームとして現地を最初に訪れたのは、4年後の90年6~7月。当時はソ連の時代で、外国メディアとしては最も早い時期の本格取材だった。

1カ月でロシア、ウクライナ、ベラルーシを回ったが、ナロジチの町で会った3人の記憶が強烈だった。

町はちょうど疎開時期だった。地域の汚染レベルは「疎開が必要」。「強制疎開」に次ぐ2番目の高さだ。疎開決定が89年と遅れ、移住先の確保も大変とはいえ、汚染地に4年も住んでから動くのか、と驚いたのを覚えている。すでに町では新生児死亡率が上昇気味との指摘が出ていた。

引っ越しで町がざわつくなか、私は家畜試験所に所長のミコラ・ガリンチク(当時48)を訪ねた。家畜の奇形出産増加について聞くためだった。

一段落して、ミコラが「放射能を除く薬だ」といって三角フラスコに入った透明の液体を持ってきた。ウォッカか、と思ったが、仕事で使うエチルアルコールだった。ウォッカは飲み尽くしていた。

ほぼ100%の生(き)のエチルアルコールを飲むのは初めてだった。火が口中に広がる。「火、火!」とのどを指すと大笑い。私は途中から水を半分いれた「水割り」にした。

試験所には、パソコン技師のピョートルと町ソビエト議長のイワンもいた。3人は幼なじみだ。

強烈なアルコールのせいか、みんなで近くの野原にでた。夏の太陽の下、きれいな小川の横で宴会になった。エチルアルコール、だれかが調達してきたウォッカ、チーズ、ハム、イチゴ。放射線を気にしながらの宴会が続いた。誰もが疎開を嫌がっていた。ピョートルは両親を残したまま町を去るという。「放射能があるなら見せてくれ、が父の口癖でね」

興に乗ったミコラは「町とも友人ともお別れだ」といい、下着姿になって小川にバシャーンと飛び込んだ。奇形魚がとれた川だ。やけっぱちの気持ちが伝わってきた。

3人はあれからどんな人生を送ったのか。ずっと気になっていた。そして今年、ナロジチを訪れた私のことを聞きつけ、ミコラは車で駆けつけてくれたのである。

「エチルアルコールを飲ませたことはよく覚えてるよ」と笑った。ただ26年ぶりの話は意外なものだった。「私はこの町を離れていない。疎開しなかった」=敬称略

(文と写真・竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:2)勝手に戻って、町は残った
2016年6月7日

チェルノブイリ原発事故による汚染の分布

 






チェルノブイリ原発事故から4年後の1990年6月、原発から約70キロ離れたウクライナ北部の町ナロジチを取材した。放射能汚染による集団疎開の直前だった。そこでミコラとイワン、ピョートルの幼なじみ3人に出会った。

今年3月、そのうちのミコラ・ガリンチク(73)と26年ぶりに再会した。家畜試験所長だった彼の暮らしは、この四半世紀でどうなったのか。

疎開でミコラに与えられたのは、約100キロ南の都市ジトーミルのアパートだった。一家で移ったが、間もなくミコラだけナロジチの元の家にこっそり戻ったという。

「住所はジトーミルに置いて、住んでいるように見せかけた。追い出されかけたこともあったが、不便でも住み慣れた所が一番だ」。ジトーミルに残した家族には、しばしば会いに戻ったという。

チェルノブイリ周辺の汚染地は、1平方メートルあたりの放射性セシウムのレベルで4段階に分類された=地図参照。高い順に「強制疎開」「疎開が必要」「疎開してもよい。その場合は国が支援」「放射能の監視が必要」とされた。

ナロジチは2番目の「疎開が必要」。しかし、この町は珍しい歴史をたどった。疎開した人々が次第に戻り、町が存続したのだ。かつて中心部の人口は約6千。疎開後も「500人が勝手に残って、1500人が勝手に戻った」といわれる。今は約3千人。

厳しく管理された疎開で、こんなことが可能なのか?

町の幹部に聞くと「仕方がなかった」という。「キエフなどの都会になじめなかった老人が、どんどん帰ってきた。状態のいい空き家の使用を黙認した」。自分の家には他人がいたので、別の空き家に住んだという話も多い。

汚染地には厳しい規制がある。家や土地は売買できない。地元の農作物や森のキノコなどは食べられない。放射性物質が飛ぶので、森の木を薪に使うこともできない。

代償として「きれいな食料を買う手当」が出る。しかし住民に聞くと、「気にしないで地元のものを食べている」。手当は生活費一般に消える。これが実態だ。

ミコラは「その後も結局、家畜試験所に勤務できたし、まあ満足だ」と振り返った。

話を聞くうち、幼なじみ3人の一人のイワンと電話がつながった。この26年は「幸せだった」と即答した。都会のジトーミルで大変いいアパートをもらい、2人の子どもは大学に進んだ、という。

もう一人のピョートルも首都キエフで元気だそうだ。

ナロジチで聞いたことわざ。

「1日幸せになりたければ、だれかを愛せ。1カ月幸せになりたければ、結婚しろ。100年幸せになりたければ、友人をつくれ」

3人がそこそこ幸せそうなのは、友だちのおかげか。

とはいえ、イワンは病気だらけだとこぼした。胃潰瘍(かいよう)、高血圧、尿路結石。「妻も足の関節が悪くてほとんど歩けない」。ミコラも心臓が悪いという。体調不良には放射能が関係するのではないかと思っている。=敬称略

(竹内敬二)


(チェルノブイリ30年をたどって:3)外観はスマートになっても…
2016年6月8日


チェルノブイリ原発4号炉(右)を覆うための
「かまぼこ形」の新シェルター
=4月2日、杉本康弘撮影
 




チェルノブイリ原発では、事故炉を覆う新シェルター建設が進む。近づくと本当に大きい。高さ109メートル、幅257メートル、長さ162メートルもある。

建設を請け負うノバルカのプロジェクトリーダー、ニコラ・カイエが現場にいた。「除染が大変だった。事故直後にさまざまな汚染物が埋められており、その処理から始めた。建設現場は事故炉から350メートル離れているが、放射線を避けるためだ」

今年11月には新シェルターがレールの上を移動して、高さ72メートルの「石棺」をすっぽり覆う。そうなると、チェルノブイリ原発はスマートな「かまぼこ形」の外観になる。

石棺は30年前の事故直後、遠隔操作を多用して、半年ほどの突貫工事でつくった。さびや汚れが目立つ外観は、事故の恐怖を見せつける。

そのチェルノブイリ事故の象徴が隠れる。そもそも事故はどんなものだったのか。

1986年4月26日午前1時23分、計画停止に向けて出力をしぼっていた4号炉が突然暴走し、爆発。炉心で火災が発生し、放射性物質が飛び散った。炉心は高温になって核燃料がどろどろに溶け、それが大気に直接触れるという想像を絶する事態になった。

制御棒の設計ミスや、暴走しやすい炉の性質、操作の不手際が重なった。

高放射線のなか、消防士たちは火災に立ち向かった。約30人が急性放射線障害などで日を置かずに死亡した。

この惨事を世界は3日間、知らなかった。当時のソ連が黙っていたからだ。放射性物質が風で北欧まで飛び、そこで検知された。ソ連の公式発表は発生からほぼ68時間後の28日午後9時だった。

周辺住民への情報発信も遅く、少なかった。

原発から約4キロ離れた町プリピャチでは、事故から1日近くが過ぎた26日夜、住民が丘やアパートの屋上などから、空を真っ赤に焦がす「発電所の火事」を見物していた。翌27日午後、彼らは突然現れた約1200台のバスと3本の列車に乗せられた。「3日分の用意を」といわれたが、以来、町は無人だ。

「ウクライナ日記」などで有名なウクライナの作家、アンドレイ・クルコフは私のインタビューで「ソ連政府の罪は、5月1日のメーデーまで事故の実態を隠し続けたことだ」といった。メーデーは国民的祝日であり、多くの人が連日、行進やマスゲームを練習していて、被曝(ひばく)した。

原発から半径30キロ圏内の11万6千人の避難決定は、5月2日だった。

石棺の建設作業も膨大な被曝者を生んだが、問題だらけだった。「密閉した構造物」と宣伝されていたが、90年の現地取材では「隙間の合計は1千平方メートル」という驚くべき答えが返ってきた。内部は暖かいので、鳥が巣をつくりスイスイ行き来していた。2006年の取材でも、隙間はまだ「100平方メートル」あった。

新シェルターが完成すれば「100年は大丈夫」とされる。だが内部には、溶けて固まった核燃料の残骸がある。最終的解決は数十年単位の壮大な先送りになる。
=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:4)疎開の村、人気ベッドタウンに
2016年6月9日



中央の花束を持つ女性が通訳、
右隣が筆者、その右2人目の横顔の少年が
13歳のオディネッツ=1990年6月17日 















ウクライナの首都キエフの南西約30キロにある新ボロービチ村とは、長いつき合いだ。

今年3月に訪れると、住民たちが古い写真を持ってきてくれた。1990年、初めて取材にきたときの1枚だ。青いスーツ姿の男性が、集合写真に写る一人の少年を指さした。「これは私です」

ウラジスラフ・オディネッツ(39)だった。当時13歳。いまはキエフ州ワシリキフスカ地区の地区長だという。

立派になりましたね。思わずそう語りかけると、恥ずかしそうに握手を求めてきた。「あなたが最初に来た日をよく覚えている」といって、当時の記憶を話し始めた。

新ボロービチ村は、原発事故から逃れてきた「疎開者の村」だ。私との出会いは異例なものだった。

90年6月17日、村の路上で住民に話を聞いていると、軍用四輪駆動車が目の前で止まった。兵士数人が降りてきて、私と通訳を連行しようと車に乗せた。

実はその朝、誤って軍の駐屯地の写真を1枚撮ったことが問題にされ、事情を聴かれていた。まもなく放免されたのだが、兵士は「まだ聴取が終わっていない」という。

ところがそのとき、何人もの村人が車を囲んで、動けないようにしたのである。「苦しい疎開生活の取材を邪魔するのか」という抗議だった。

結局、私たちは再度連行され、3時間ほど聴取を受けた。夕方前に疲れ切って村に戻ると、今度は大勢の村人が「よかった、よかった」と拍手で迎えてくれた。心配して待っていてくれたのだ。そして、バラの花束をもらった。

そのバラを持った写真に、オディネッツが写っていたのである。

以来、新ボロービチは私にとって特別な村になり、多くの友人もできた。

村の人たちはもともと、原発の西約40キロの旧ボロービチ村に住んでいた。松とシラカバの森に囲まれ、ホップやジャガイモ、麻などをつくり、畜産も盛んだったという。

86年4月26日、チェルノブイリ原発が爆発した。村は汚染され、住民は大きく4カ所に分かれて移住した。その一つが新ボロービチ村だ。

90年の最初の取材では、みな故郷の話ばかりしていた。

「4年も経つのに、まだ放射能があるという。日本の技術でなくならないか」。老人たちは「すばらしい元の村に帰りたい」を繰り返した。森にはサクランボ、コケモモ、イチゴが豊富にあった。

しかし、年月とともに村の雰囲気は変わっていった。

86年に移住した357人のうち、今年までに165人が死んだ。旧ボロービチ村や、原発での除染を話してくれた人は、次第に減っていった。

今やリーダーはオディネッツらの世代だ。村長のリュドミラ・サブチェンコは34歳。「人生でエネルギーを費やしたところや、大事なことをしたところが、その人の故郷でしょう。いまの住民には、新ボロービチ村が故郷です」

「疎開者の村」だった新ボロービチ村はいま、キエフに通いやすい人気のベッドタウンになっている。=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:5)村長だった彼女の献身
2016年6月10日




1990年6月。
右からスベトラーナ、ボロージャ、
ユーラ=ウクライナ・新ボロービチ村
 


 


新ボロービチ村で、ある家族と親しくなった。

1990年6月に初めて村を訪れたとき、スベトラーナ・カリストラトワは42歳で、村長を務めていた。再婚したばかりの夫ユーラは30歳、次男ボロージャは11歳。

スベトラーナは陽気で行動力にあふれ、住民の生活向上に奔走していた。

村はチェルノブイリ原発事故の疎開者がつくった。住民は周辺の集団農場に配属されたが、すでに人員は足りていて、トラブルも多かった。「放射能がつく」「チェルノブイリ人」などといわれた。

女性は子どもを望まず、中絶も多かった。男性は性的不能への不安をもち、酒浸りになった。離婚が増えた。

最も苦しかったのは、経済危機の90年代半ばだったろう。肥料や家畜のえさ、トラクターの燃料が不足し、生産が落ちた。給料は遅れ、砂糖やソバの現物支給になった。

「事故直後はお金があってもモノがなかった。いまはモノがあってもお金がない」。96年に再訪した時に聞いた、スベトラーナの言葉だ。市場経済が広がっていた。

それでも彼女はリーダーとして住民をまとめ、奮闘した。住民が切望した都市ガスが96年にやっと引けた。

2001年、3回目の訪問。4月26日、村の広場で、事故15周年の集会が開かれた。彼女は村長として、こんなあいさつをした。

「もう元の村に帰ることはできません。ここが、みなさんの第二の故郷です」。老人たちが涙をふく。帰れないことは分かっていた。納得する時間として、15年が必要だったともいえる。

このころ新ボロービチも若い人中心の村へ変わりつつあった。スベトラーナの人生にとっても転機だったろう。

旧村への思いは、スベトラーナも人一倍強かった。男の子を2人産んだ。夢だった家を85年10月に建てたが、翌年4月に原発事故で失った。

取材ノートには、スベトラーナの弱気の声が出るようになった。「私は村長として、村の人を助ける努力をしてきた。でも自分の楽しみはほとんどなくなった」(01年)

03年に夫ユーラを病気で亡くした。05年には、約15年務めた村長を引退。06年の取材ノートにこうある。「死ぬまでに東京とパリを見たい」

今年3月、再会した。いまはキエフのアパートに1人で暮らす。「原発事故で人生が変わってしまった」と振り返り、「私の役割も終わった」とつぶやいた。

次男ボロージャは、チェルノブイリ被災者の特別枠もあってキエフ大学に進み、法律を学んだ。11年まで軍の法務部門で働いた。37歳のいまは、母親がつくった慈善基金の事務局長だ。

ウクライナを去る前、スベトラーナやボロージャ一家と食事をした。ボロージャの息子の名もボロージャ。10歳でダンスが得意だという。私が26年前に父ボロージャと会ったときと同じ年頃だ。

30年で人生はこれだけ変わる。38歳で原発事故に遭ったスベトラーナは、いま68歳。=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:6)25年たって、なぜ福島で
2016年6月13日


1996年3月、原発事故10年を機に、
かつて「石棺」建設に携わった労働者たちが
「同窓会」のようにチェルノブイリを訪れていた。
一人が「ベラルーシから来た。思い出したくはない」
と表情を変えずにいった 


チェルノブイリ原発事故をめぐって、これまでに5回、現地を訪れた。過去の取材では、「遠い国の悲劇」とみていたことは否定できない。地元の人々にとっても、日本は遠く感じられただろう。

しかし、福島第一原発事故がおきると、日本に向けられる視線は一変した。「なぜ防げなかったのか」が問われることになったのだ。

今年3月、ウクライナ・キエフ郊外の新ボロービチ村で、ニーナ・テレシェンコ(78)に会った。「これだけは、いっておきたかった」と彼女は語り始めた。

「教えてほしい。なぜ福島で、日本で、事故がおきたのか。すべてチェルノブイリで経験したはずなのに……。ニュースを聞いて、震えと涙が止まらなかった」

故郷は事故で汚染され、疎開してきた。娘のレイサは疎開後、14歳で白血病で死んだ。「故郷へ帰りたい」といっていた元ジャーナリストの夫も、5年前に死んだ。

ウクライナでは、日本の科学技術は大変高いと思われている。なのに25年もたって、似たような事故をおこした。

チェルノブイリ事故の現地を何度も見るうちに、私は「日本なら対応できないかもしれない」という怖さを、二つの点から感じていた。

一つは、多くの住民が移住する土地はあるのか。もう一つは、大事故を収束させるために命にかかわる作業を命じることができるのか。

2001年、原発運転員だったエウドチェンコ(当時48)にキエフで話を聞いた。

事故のとき、爆発した4号炉の隣の3号炉の運転室にいた。3号炉を止めたあと、高放射線の中、同僚と一緒に、4号炉の運転員ホデムチュクを捜しに行った。3回試みたが見つからなかった。ホデムチュクは、がれきに埋まっている。一緒に行った同僚は急性放射線障害で死亡した。

彼の場合は、命令を待たずに動いた。一方、命令を受けて、多くの人が高放射線の中で事故に立ち向かった。30人近くが犠牲になった消防士、上空から砂を落としたヘリコプター乗務員、ロボットも使えない中で核燃料の残骸をスコップで処理した兵士。そうした作業があり、放射能の大量放出が10日間で止まった。

エウドチェンコは「我々が逃げずに闘い、世界に汚染が広がるのを防いだことを知ってほしい」といった。

チェルノブイリ事故のとき、日本は32基の原発を持ち、増設まっしぐらだった。事故から3カ月後の1986年7月、当時の通産省の総合エネルギー調査会は「2030年には原発の発電シェア58%、原発数は約140基」とのビジョンを出した。翌87年5月、原子力安全委員会の特別委員会が出した最終報告書は、「早急に現行の安全規制、防災対策を変更する必要はない」と結論づけた。教訓はない、ということだ。

福島第一原発事故が、なぜ日本でおきたのか。答えの一つは「チェルノブイリの教訓をまじめに考えなかったから」だ。宿題は残る。「福島の教訓は十分に学んだのか」である。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:7)子どもの甲状腺がんだけなのか
2016年6月14日


がんで甲状腺を摘出したゴメリ医科大の学生。
さりげなく襟の高い服を着ていた=2006年3月
 


首の手術痕を隠すため、襟の高い服を着ていた。2006年3月、ベラルーシ南東部の都市ゴメリのゴメリ医科大学で、がんで甲状腺を摘出した医学生6人に話を聞いた。

マリーナ・イワンチコワ(当時22)は、2歳でチェルノブイリ原発事故に遭い、10歳で手術を受けた。「プールにいる私を見て、母が『のどが腫れている』と気づいた。それほど大きくなっていた」

タチアナ・クラフチェンコ(同21)は9歳で摘出した。「手術で声帯が傷つけば、声を失うといわれた。手術痕がきれいなのがうれしい」

チェルノブイリ事故の健康被害として、「子どもの甲状腺がん」が知られる。だが、国際原子力機関(IAEA)は、なかなか認めなかった。

事故から5年の1991年5月、健康影響に関するIAEAの国際会議がウィーンで開かれた。私も取材した。

いまでは信じられないが、報告書は「統計上は健康への影響は見られない」。ウクライナとベラルーシの研究者が「こんな報告は認められない」と大声で抗議し、会場は異様な雰囲気に包まれた。

ベラルーシの事故対策特別委員会議長ケーニクは「報告書から『甲状腺がんの増加はない』との表現を削除して欲しい」と求めた。両国は記者会見し「楽観的過ぎる。受け入れられない」と抗議した。

だが、議論がかみ合わないまま会議は閉会。両国の主張に対し「地方の医師が見まちがったのだろう」と軽く見る雰囲気があったように思う。

「子どもの甲状腺がんの増加」がようやく認められたのは、95年のIAEAなどの国際会議。ゴメリの学生たちは手術を終えていた。ここでも影響は「子どもの甲状腺がんだけ」との結論になった。

地元の研究者は、甲状腺以外のがんや心臓病、免疫系の病気、胎児の奇形など、さまざまな影響を主張する。たいていは「被曝(ひばく)との関係の証明が不十分」と批判される。

証明が難しいのは、一人ひとりの被曝量の推定ができないからだ。食べ物による内部被曝では、事故後の生活や移動の情報が必要になる。

今年3月、「チェルノブイリ傷病者の会」のメンバーにミンスクで会った。ミハイル・コワリョフ(75)。事故直後の2カ月間、原発近くで水路建設を指揮した。脳の血管障害や白内障のほか、ほとんどの内臓が悪い。「病気の花束だ」。看護師だったタマラ・コレスニク(68)。現地で感染症防止に携わった。42歳で関節が悪化し、痛み止めなしでは歩けない。手の指の関節が大きく腫れている。「働きたかった。残念な人生だ」

現場でぶつかるのは、こうした話だ。影響が「甲状腺がんだけ」という結論には違和感がある。事故の実相をあいまいにする。放射能だけではなく、ストレスなど事故全体の影響を見るべきだろう。

子どもの甲状腺がんは、いま福島で増えている。

6日の県の発表では計131人。当初は「見つかるのは2・1人」との予測さえあった。県の検討委員会は「放射線の影響とは考えにくい」とする。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:8)人の30年、セシウムの30年
2016年6月15日


ノボズィプコフの公園で、親子が遊んでいた
 


チェルノブイリ原発事故から30年が過ぎた。人間では1世代。人生はまったく変わる。一方、主な汚染源の放射性セシウム137では半減期1回分。まだ半分が残る。

4月初め、ロシア南西部の都市ノボズィプコフを訪れた。人口約4万2千。ベラルーシ国境に近く、原発から約180キロ離れている。

広場を親子連れが散歩し、市場には復活祭に使う鮮やかな造花が並んでいた。静かな地方都市に見える。だが見えない放射能との闘いが、30年たっても続いていた。

「政府の決定は無効にして欲しい。そもそも最初の約束では、新しい町を建設し、そこに移住するはずだった」。ナオミ・グリービッチ(77)は憤る。長く地元の機械工場で働き、いまは年金生活だ。

事故後、周辺の汚染地は4段階に分類された。ノボズィプコフは上から2番目の「疎開が必要」だった。ところが昨年10月、ロシア政府は最新の放射能データにもとづく「改定」を実施した。ノボズィプコフは一つ下の「疎開してもいい」に変更された。

汚染の減少は喜ばしいことだ。しかし、住民は怒っている。なぜなのか。

事故直後、町全体を移転、疎開させる計画ができたが、失敗した。規模が大きすぎたのだ。連載2回目でとりあげたウクライナの町ナロジチの場合、移住先は用意されたが、住民が勝手に戻るなどして町が存続した。一方、ノボズィプコフの周囲には大草原が広がり、移住者を吸収できる大都市など存在しない。

結局、町は残った。住民には各種の補償が出た。きれいな食料を買う手当、年金の早期支給、税金の減免、医薬品の割引、2倍の有給休暇……。これらを合わせると収入の2割になるといわれた。

そんな生活が30年続いた。しかし、昨年の突然の「改定」によって、優遇措置も削減される。年金生活者のグリービッチの場合、「月約9千ルーブル(約1万5千円)から500ルーブル減額される」という。

ロシア政府が今回改定に踏み切った理由としては、財政難が指摘されている。そして、セシウムの半減期である「30年」という切りのよさがある。「放射能が半分になったから」といえるのだ。

汚染が低くなれば、手当も下がる。当然ともいえる。住民は甘えているのだろうか。

グリービッチはいう。「改善したといっても、事故直後から住み続けているから、町の病気の発生率は高い」

放射能が半分になったところで、汚染地であることに変わりはない。30年積み重ねた生活は変えようもない。

セシウムにとって、30年は放射能が半分になる時間だ。さらに30年で、当初の4分の1になる。専門家はしばしば「半減期が5回経過すれば汚染は相当減り、10回でほぼなくなる」という。セシウムの場合、半減期5回の150年で32分の1、10回の300年で1千分の1になる。

放射能が刻むゆっくりとした時間に、人は勝てない。待っていても、一人の人生の中で「放射能が十分に減った」といえる時はこない。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:9)子ども減り「負のサイクル」に
2016年6月16日

閉鎖された学校。床板が取り去られていた 



子どもが減ってしまえば、地域の復興はできない――。チェルノブイリ原発事故で汚染されたロシア南西部の都市ノボズィプコフを4月初めに訪れると、そんな危機感を持つ多くの人に出会った。

ここの汚染レベルは「疎開が必要」に指定されたが、住民全員が移住できる新たな場所はつくれず、町は残った。事故から30年。ロシア政府は昨年10月、最新の放射能データに基づく改定として、汚染レベルを「疎開してもいい」に1段階引き下げた。

それに伴い、さまざまな手当も減らされる。反発が強いのが、子ども手当の削減だ。

3歳までの子どもを持つ母親には、月1万ルーブル(約1万6千円)から2万ルーブルが支給される。金額が大きく大事な生活費だが、これが減額される。

「母親の会」が反対運動を始めた。「政府は『人が住んでいる地域に関しては、手当は変えない』といっていた。おかしい」。議長のオクサナ・イナシェフスカヤ(33)は反発する。11歳と14歳の娘の母親でもある。

会のメンバーは昨年暮れから今年にかけて、行政機関の前に集まり、横断幕を掲げて「減額の停止」を要求した。賛同が相次ぎ、当局は減額を今年7月に延期した。

一部とはいえ譲歩を引き出せたのはなぜか。オクサナの友人で、地区の議員を務めるドミトリー・シェフツォフが「地域の苦しい状況がよくわかる」といって、郊外の学校に案内してくれた。

かつては100人を超える小学生と幼稚園児がいたが、いまはそれぞれ10人だけ。暖房費などがかかるので、閉鎖の圧力を受けているという。

幼稚園児はちょうど昼寝の時間だった。校長がいう。「学校を閉鎖・統合して、この子たちを毎日バスで1時間もかかるところまで連れて行く? 疲れるだけです」

このあたりでは最近、六つの学校が閉鎖された。原因はやはり放射能汚染だ。

農業ができなくなり、工場は閉鎖されて、雇用が減った。若い人は職を求めてモスクワなどの大都会に出る。その結果、子どもが減る。ものが売れないので、さらに雇用が減る。「負のサイクルが起きている」とドミトリー。子ども手当まで減額されれば、ますますアリ地獄にはまる。

一方、当局がめざすのは「普通の地域」を取り戻すことだ。放射能レベルが下がれば、土地の売買が再開できて、農業開発などへの投資が期待できるという。

汚染レベルが下がるのは喜ばしいことだ。だが30年の間に、地域社会は傷んでしまった。数値が下がったからといって、「普通の地域」の暮らしが戻ってくるわけではない。

似たようなことは、日本でも起きつつある。

政府は福島県南相馬市南部の避難指示を7月12日に解除する。避難している住民への1人あたり月10万円の慰謝料も、2018年3月でなくす予定だ。だが故郷は以前のままではない。農業や漁業は元に戻るのか、仕事はあるか、周りの人はどのぐらい帰るのか。生活は放射能の数字だけでは決まらない。=敬称略(竹内敬二)




(チェルノブイリ30年をたどって:10)自らセシウムで人体実験
2016年6月17日


広島を訪れたソ連の調査団。
左がラムザエフ、1人おいて団長のボロビヨフ
=1987年1月15日、広島市の原爆養護ホーム


 
















チェルノブイリ原発事故をめぐる取材では、たくさんの人に出会った。強烈な印象を残した一人の研究者がいる。

事故から9カ月後の1987年1月、当時のソ連の調査団が広島などを訪れた。放射線被害者の治療法やデータ、患者のその後の追跡方法などは、「唯一の被爆国」である日本にしかなかったからだ。

迎える側は「世界が再び必要とすることはない」(当時の日本赤十字社広島原爆病院副院長・蔵本潔)ようにと願いつつ蓄積した知見を、余すところなく提供した。

同行取材中、日本の研究者から驚くべき話を聞いた。ある人の体内の放射能を測定すると、「もう少しで放射性物質になる」レベルだったという。放射性物質とされると、日本では取り扱いに特別な資格がいる。考えられないほど高い水準だ。

その人は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の放射線衛生学研究所長パーベル・ラムザエフ(当時57)だった。「ソ連で測ると、高い値が出る」と感じていたラムザエフは、広島での測定で数値を確認しようとした。

彼は頻繁にチェルノブイリを訪れ、対策にあたっていた。その話を聞いたときは、事故処理の過酷さを思った。

ところが、つい最近になって息子のワレリー・ラムザエフに連絡がとれると、父と同じ研究所の主任研究員である彼は、さらに驚くべき事実を教えてくれた。

チェルノブイリ事故から半年後の86年秋、父ラムザエフは5人の研究者とともに、志願してセシウム137と134を計37万ベクレル摂取したというのだ。

日本の基準では、野菜や肉などの一般食品の場合、摂取できるセシウムの上限は1キロあたり100ベクレル。この上限分の食品を3700キロ食べた計算になる。ソ連が開発した内部被曝(ひばく)測定器の精度を調整するためだった。

事故被害の分析には正しい測定が必要になる。さまざまな機械の精度を確認するには、自らの汚染を「基準」として扱うことが手っ取り早いと考えたのかもしれない。広島での測定はそれから間もなくで、まだ大量の放射能が残っていたことになる。

さらに、ラムザエフが所長を務めた放射線衛生学研究所の論文を改めて読んで知ったのだが、彼は事故の前にも、放射性物質についての人体実験の被験者として、自らセシウム137を摂取したという。体に入った放射性物質の移動や排出のスピードなどを調べた。

当時のソ連では、そうした実験が行われていた。極端なやり方だ。だが、原発を持つ国として「汚染事故は起こり得る」というリアルな認識を持ち、その影響について、考えられない厳しい姿勢で検証していた。

彼に直接話を聞く機会はなかったが、原子力を推進する専門家の責任感のようなものを感じた。

ラムザエフは2002年、心臓発作で死去した。息子ワレリーは、被曝と死因に関係はないと考えているという。=敬称略(竹内敬二)



(チェルノブイリ30年をたどって:番外)「あの事件」がつなげてくれた
2016年6月20日


新ボロービチ村の人たちが集まってくれた。
中央の黒い上着の女性が村長だったスベトラーナ(68)、
右隣が現村長リュドミラ(34)、
前列右から2人目が筆者=
敬称略、2016年3月21日、杉本康弘撮影


 


















少し脇道にそれるが、チェルノブイリ原発事故についての26年の取材で印象に残ったことを書かせてもらいたい。

これまでに5回、現地を訪れた。最初は1990年6~7月。ウクライナとベラルーシ、ロシアを回った。

当時はソ連の時代で、取材は手探りだった。被災した人たちがどんな状況で暮らしているのか、ほとんど情報がなかった。住民への直接取材が可能かどうかも不明だった。

事件が起きたのは、取材を始めて4日目の6月17日だった。連載4回目で触れたが、ウクライナ・キエフ郊外の新ボロービチ村を取材中、私と通訳、乗っていたタクシーの運転手が兵士に連行された。その朝、誤って軍の駐屯地の写真を撮ったからだ。

駐屯地の15畳ほどの部屋に入れられた。レーニンの肖像画がかかっていた。アジア系らしい取調官が入ってきた。

「写真を撮ったか」「目的は」「なぜ兵舎に近づいたのか」……。スパイではないかと疑っているらしい。間違えただけだと繰り返す。「意図的に撮影した」と書かれた書面に「サインしろ」という。「しなければここを動けない」。サインすれば即出国、という雰囲気だった。

若い運転手が「外国人とみれば、どうしてスパイのように扱うんだ」と叫び、部屋から連れ出された。サインを拒み続けていると、取調官は「署名を拒否した」という書類をつくり、ようやく私たちを放免した。運転手は外のベンチで待っていてくれた。

約3時間後、午後4時すぎに村に戻ると、大歓迎を受けた。心配した村の人たちは、軍や行政機関、有力者に電話で働きかけてくれたそうだ。連行されるときにも、軍の車をとり囲んで「降ろせ」と抗議してくれた人たちだ。放免されたとき「また聴取があるかもしれない」と感じたが、結局なにもなかった。住民たちに守られたと思っている。

その後、96年と2001年、06年、16年にチェルノブイリを取材した。村の人たちは「あの事件の記者」と覚えていてくれて、村を越えて友人を紹介してくれた。新ボロービチ村は「チェルノブイリを知る窓口」になった。

国際原子力機関が「事故による健康影響はない」としていたころ、村の取材では「原発事故後の4年間で、医師の検診は2回だけ」と聞いた。現場の状況はくみ上げられているのか。「影響は子どもの甲状腺がんだけ」といわれたころ、村には病人と体調不良の人があふれていた。

村の人々、特に老人たちからは「納得できない怒り」を感じた。戦争が起きたわけでも、火事で家を焼かれたわけでもない。なのに人生の蓄積を捨てるように、故郷を去らなければならない怒りだ。

そして5回目の取材になった今年、福島や日本への関心と同情が寄せられるようになった。チェルノブイリは原則的に、土地の除染や地域への帰還はしない。日本は「除染して、できるだけ帰還する」という方針だ。チェルノブイリでは経験のない試みになる。(竹内敬二)



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