2017/04/07

鎌仲ひとみ監督より/肥田舜太郎先生のお話会 カマレポNO.37より(動画)

(鎌仲ひとみ監督より、肥田舜太郎先生の訃報に際して、下記のメッセージが届きました。合わせて最後のお話会だっただろうという動画も公開してくださっていますので、ご紹介します。あらためてご冥福をお祈りします。 子ども全国ネット)


肥田舜太郎医師が3月20日にお亡くなりになりました。
100歳でした。
1999年、私はイラクから帰ってきてイラクの子どもたちに
医療支援をして下さいとお願いしに初めて、肥田先生に会いに行きました。
被爆者外来の札をかけた小さな診察室で肥田先生は
イラクの子どもたちは「ヒバクシャ」だと言ったのです。
目に見えない、小さな放射性物質の微粒子を体内に取り込むこと、
身体の中から被ばくすることを私は生まれて初めてこの時、
肥田先生から教えられました。
衝撃でした。
被ばくがそんな風に起きるということ。
それを自分自身が知らなかったということ。
がです。
NHKの番組制作をやめて、「低線量内部被ばく」そのものを映画にすることを決意しました。
1999年当時、そんなテーマの映画を誰が観るというのでしょう?
海のものとも山のものとも解らないこの映画に、
今は亡き小泉プロデューサーが、「いっしょに作ろう」と言ってくれました。
それ以来、私は映画の道に再び戻ってきたのです。
肥田先生に会わなかったら私の映画人生もなかったでしょう。
当時、肥田先生は83歳。腰を痛めていましたが、
映画に出ようとプールに通って、みるみる元気になられました。
イラクには一緒に行けませんでしたが、アメリカ核兵器工場の風下、
ハンフォードロケに一緒に行きました。
日本のヒバクシャとアメリカのヒバクシャが出会う、
そんなシーンが撮れました。
肥田先生はアメリカのヒバクシャを無自覚なヒバクシャと呼んでいました。
それらについてはぜひ映画「ヒバクシャー世界の終わりに」を観て下さい。
http://kamanaka.com/works/works-movie/works-theater/4/
炎天下の広島を、8月6日のあの日、先生がどう動いたのかをたどって
延々と歩き回ったり、「飲もう」と声をかけられ、銀座のバーを飲み歩いたり、何度も何度も、お宅にうかがってお話を聞いたり、
18年があっという間に経ちました。
今、こうやって、肥田先生が亡くなられてみると、後に残ったのは
肥田先生の優しさ、愛情の大きさ、ひたむきな情熱と心のまっすぐさ。
先生のお人柄が私の中にしみこんでいます。
沢山の愛をいただきました。
私だけにではなく、ご縁があったすべての人に
先生は独特の暖かい愛情を注がれました。忘れることができません。
「自分の命の主人公になりなさい」、そんな自分自身の言葉
通りに生きられた方でした。
私の核をめぐる映画制作のきっかけを作って下さった
肥田先生に深く深く感謝の気持ちを捧げ、冥福を祈ります。
2016年6月6日に肥田先生がお話会をされました。
きっと、あれが最後のお話会だったと思います。
それを記録したカマレポを追悼の思いを込めて公開いたします。

撮影・編集はぶんぶんスタッフの宮島です。
文責 鎌仲ひとみ

■カマレポNO.37 《自分が命の主人公として~肥田俊太郎先生お話会~》
https://youtu.be/3eMgeWtzqCE
こちらのお話会を主催された快医学ネットワーク様がお話会を
ブックレットにまとめてくださいました。
ご興味のある方はこちらから

http://kainet.fem.jp/wkn2/
■DVD等のご購入はこちらから
http://shop.kamanaka.com/


https://www.youtube.com/watch?v=3eMgeWtzqCE&feature=youtu.be


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